2025/06/23 07:00
日曜の午前、新潟駅からバスで15分。信濃川の堤防に立つと柔らかい陽射しとともに、菜の花の群れが視界に入った。
渡瀬拓也は、その風景をただじっと見ていた。
来ないかと思った。
背後から声がした。
振り返ると、紺のウインドブレーカーに身を包んだ娘、咲が立っていた。黒髪を一つに束ねている。
高校生のときと変わらない表情。
「走るって聞いたから、靴と着替えだけ持ってきた」
咲はそう言って、軽く伸びをする。拓也も続ける。会うのは5年ぶりだった。咲が中学を卒業してすぐ、拓也は東京の会社を辞め、母の介護のために新潟に戻った。そのまま部屋を借り定住した。
ようやく時間ができて、何か話したいと思った。でも、言葉が見つからなかった。
だから代わりに「一緒に走らないか」とだけメールした。
2人は河川敷のランニングコースを並んで走る。最初の1キロは無言だった。けれど、春の風とともに、咲がふと口を開いた。
「いま、都内で働いてる。営業で。社内にもけっこう走る仲間、いるんだよ」
拓也は「へぇ」とだけ返した。
彼女はずっと運動が苦手だったのに、成長とは面白い。
「それとね、こないだ倒れかけたことがあって。ちゃんと食べてなかったから。だから最近、走るだけじゃなくて食べることも意識するようにしてる」
走りながら話す娘のピッチは、父よりも正確だった。
拓也は少し笑って、うなずいた。
10キロを走ったあと、ふたりは拓也の部屋に居た。
Paul Wellerを小さな音で流しながら、拓也はランナーズスパイスを取り出した。
【スパイス炒り卵と豆の焼きおにぎり】
<材料>(2人分)
・玄米ごはん 茶碗2杯分
・卵 2個
・ミックスビーンズ(ドライパック) 大さじ2
・ランナーズスパイス 小さじ1
・しょうゆ 小さじ1
・ごま油 少々
<作り方>
1. フライパンにごま油を熱し、溶き卵を入れてスクランブル状に炒める。
2. ミックスビーンズとランナーズスパイス、しょうゆを加えてさっと炒め合わせる。
3. 炊いた玄米ごはんに炒り卵を混ぜ、2個のおにぎりに握る。
4. 焼き網やトースターで表面を軽く焼く。
焼きおにぎりを口に運びながら、咲が言う。
「こういうの、母さんは作らなかったな。美味しい。走ったあとって、これぐらいがちょうどいい」
拓也は答えない。ただ、口元だけが緩んだ。
「来月、10キロの大会出るんだ。一緒に出る?」
「……タイム、負けても知らないぞ」
ふたりは顔を見合わせて、笑った。
言葉は少ししかない。
けれど、充実していた。
ピッチと呼吸、そしておにぎりの温度で。

走ることも、笑うことも、どちらも“整える”こと。
ランスパがあれば、走った話にオチがつく。
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