2025/06/27 20:00
雨の降る前の空気が好きだった。
しっとりと湿って、光が柔らかくなる。葉の輪郭が少し滲んで見える。
それが、好きだった。
千紘は、鎌倉駅から海沿いへとゆっくり走っていた。
梅雨入り前の貴重な晴れ間。紫陽花はまだ色づき始めたばかり。潮の匂いと、朝食のバターの香りが交互に鼻をかすめる。
呼吸は静かだった。
40を過ぎてから走りはじめた。
離婚をきっかけに鎌倉に移り、何も考えない時間が欲しくて。
最初は散歩のつもりだった。
それが、いつの間にか走るようになっていた。
海へ出て折り返し、材木座のスタジオまで戻る。5キロ強のコース。
走ると、考えすぎない自分になれる。
考えすぎないと、自分が少し見える。
スタジオに戻ると、展示の搬入が始まっていた。
今日は、所属するアートユニットの新しい企画展の準備日。
大きな作品が運び込まれ、壁に吊られ、ケーブルが這い、脚立が並ぶ。
千紘は、いつものように“搬入飯”担当だ。
走ったあと、シャワーを浴び、Tシャツに着替えて、キッチンへ向かう。
「ねえ、今年もあれ、作る?」
「うん、さつまいものやつね」
笑顔で応えながら、冷蔵庫を開ける。
【さつまいもとカッテージチーズのレモンミントサラダ】
<材料>(4人分)
・さつまいも 中1本(約200g)
・カッテージチーズ 100g
・きゅうり 1/2本(薄切り)
・ミントの葉 ひとつかみ
・レモン汁 大さじ1
・オリーブオイル 小さじ2
・ランナーズスパイス 小さじ1/2
・塩 少々
<作り方>
1. さつまいもは皮ごとよく洗い、1.5cm角に切ってやわらかく茹で、冷ましておく。
2. きゅうりは塩もみして水気をしぼる。
3. ボウルにレモン汁、オリーブオイル、ランナーズスパイス、塩を入れてよく混ぜる。
4. さつまいも、きゅうり、ちぎったミント、カッテージチーズを入れ、3で和える。
5. 冷蔵庫で冷やし器に盛る。
壁に作品がかかり、スピーカーから試しの音楽が流れ始めたころ、千紘は大皿に盛ったサラダを台に並べた。
スタッフがそれを見つけ、手を止める。
「うわ、これ食べたかったんだよな」
「去年の夏、搬入終わりにこれ出したら、評判よかったから」
ミントとレモンの香りが、汗のあとにもちょうどいい。
「やっぱり、美味しい」
「スパイスのおかげね」
笑いながら言って、自分の分も小皿に取り分ける。
走ることと、つくること。
どちらも、自分の輪郭をたしかめるための行為だ。
たしかに、ここにいる。
そんな感覚。
スパイスの香りとレモンの酸味が、口の中に残った。

走ることも、笑うことも、どちらも“整える”こと。
今日も、お疲れスパイス。
▶ 次の話 【優しさと、走る|第1話 春の匂いがした日】