2025/06/30 07:00
父がいなくなった翌週の火曜日、ぼくは走った。
葬式のあと、学校はしばらく休んでもいい、と母が言ってくれた。
そういうときは無理をしない方がいい、と先生も言った。
だから、今、朝の時間は丸ごとぼくのものだった。
けれど、その時間が少しこわかった。
なにをしても、なにかがこぼれ落ちてしまうような気がした。
たとえば朝ごはんのトーストも、机の上のコップも、世界の中でバラバラに浮かんでいて、どこにもつながっていないみたいな。
それで、くつひもを結んだ。
父が走っていた川沿いの道まで、ゆっくり歩いていって、それから走った。理由はなかった。
けれど、気がついたら走っていた。
風はまだ冬の名残をとどめていて、顔をなでるたび、目が少し痛くなった。
ぼくの靴は不規則に音を立ててアスファルトを打ち、肺は急に動かされて驚いたのか、すぐに苦しくなった。
走りはじめてすぐ、息が切れた。足も痛いし、心臓の音が耳にまで届いていた。
でも、それでも立ち止まりたくなかった。
立ち止まると、世界がまた音を消してしまうような気がして。
父がよく言っていた。
「走るときは、耳で風を聴け」
その意味はわからなかった。
でも、いま、すこしだけわかる気がした。
帰ると、台所に母がいて、キャベツを刻んでいた。
「走ってきたの?」
ぼくはうなずいた。
母はそれきり何も言わず、スープをよそってくれた。白いんげん豆とキャベツのレモンスープだった。
ランナーズスパイスの香りが湯気の中から立ち上って、ぼくの汗の匂いとまざった。
父が好きだったスープだった。
ぼくも好きだ。
スプーンを口に運ぶと、体の芯がほどけるように、熱がひろがった。
キャベツの甘さと豆のやわらかさ、それから、スパイスの優しい刺激。
食べ終わるころには、朝の光が窓の下に届いていて、スープの底に影が揺れていた。
【春キャベツと白いんげん豆のスパイスレモンスープ】
<材料>(2人分)
・春キャベツ 2枚
・白いんげん豆(水煮) 100g
・玉ねぎ 1/4個
・野菜だし 400ml
・レモン汁 小さじ2
・ランナーズスパイス 小さじ1
・オリーブオイル、塩、胡椒 適量
<作り方>
1. キャベツはざく切り、玉ねぎは薄切りにする。
2. 鍋にオリーブオイルを熱し、玉ねぎをしんなりするまで炒める。
3. キャベツと白いんげん豆を加え、軽く炒める。
4. だしを加えて中火で10分ほど煮る。
5. ランナーズスパイス、レモン汁を加え、塩胡椒で味を調える。
6. 器に盛り、オリーブオイルをかける。
「また走るの?」と母が聞いた。
「うん」
母はうなずいて、それから、少し笑ったように見えた。
その夜、夢のなかで、ぼくは走っていた。
風のなかに、父の声がまじっていた。
それは、まるで風の匂いみたいだった。思い出そうとすると、すっと消えてしまう。でも、たしかにそこにある気がした。
春のはじまりの、そんな日だった。

誰かを想う気持ちにも、やさしい香りを。
食卓に、やさしい風を運ぶスパイス。
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