2025/07/07 07:00
木曜日の朝、ぼくは父の机の引き出しを開けて、万年筆をみつけた。
書いてみるとインクがかすれていた。ペン先が少し欠けてる。
でも、万年筆には父の手のぬくもりが残っているような気がした。
午前中の光の中を、ぼくは走った。
ひとりだった。
あの犬には会えなかった。
川沿いの道に、昨日よりたくさんの風がある気がした。
ひとが少ないせいか、音がよく聞こえる。
鳥の声と、ぼくの靴の音。
それから、誰かが何かを書く音。
公園のベンチに、年配の男の人がいた。
膝にノートをのせて、鉛筆でなにか書いている。
ぼくはすこしだけ、足をゆるめた。
「おや、きみは昨日の犬と走ってた子かい?」
「え?」
男の人は、にっこり笑って言った。
「白黒の犬と走ってたろう。しっぽが長くて、耳がぴんとしてて、毛がくるくるの」
「見てたんですか?」
「うん。あの犬は、たまに来るんだ。走る子どもが好きらしい」
帰ると、母がキッチンでスープをつくっていた。
土鍋のふたを開けると、甘い匂いとスパイスの香りがまざっていた。
「試しに、作ってみたの」と母が言った。
「そうねぇ名前は、かぼちゃと豆乳のランナーズスパイス入りスープ」
「名前、ながいね」とぼくが言うと、母がくすっと笑った。
スープは甘くて、ちょっとだけスパイシーだった。
飲んでいると、なんだか体の中が広くなっていくみたいだった。
その広さのなかに、ちょっとだけ、父の声が入ってきた気がした。
【かぼちゃと豆乳のランナーズスパイス入りスープ】
<材料>(2人分)
・かぼちゃ(皮をむいて)200g
・玉ねぎ 1/4個
・無調整豆乳 300ml
・水 100ml
・ランナーズスパイス 小さじ1
・塩 少々
・オリーブオイル 適量
<作り方>
1. 玉ねぎとかぼちゃを薄切りにする。
2. 鍋にオリーブオイルを熱し、玉ねぎとかぼちゃを炒める。
3. 水を加えてやわらかくなるまで煮る。
4. 火を止めて少し冷まし、ミキサーで撹拌する。
5. 鍋に戻して豆乳とランナーズスパイスを加え、弱火で温める。
6. 塩で味をととのえて完成。
「お父さん、日記とか書いてた?」とぼくは聞いた。
「書いてたよ。読みたい?」
ぼくは少し考えてから、うなずいた。
夜、母が引き出しからノートを出してくれた。
そこには、丸くてやさしい字で、いろんな日のことが書いてあった。
「〇月〇日 風が強かった。息子が初めて転ばずに走った。すごいなあ、と思った」
「〇月〇日 カレーを作りすぎてしまった。少し辛かったのかも。息子は食べながら泣いていた」
「〇月〇日 おれの足音よりも、あいつの足音のほうが軽い」
字を読んでいると、なにかがじんわりしてきた。
でも泣きはしなかった。泣いてしまうと、声が聞こえなくなる気がしたから。
手紙みたいだな、と思った。
父が、ぼくに出さなかった手紙。
その夜、ぼくは自分のノートに、犬のことを書いた。
そしてはじめて、父のことも少しだけ書いた。
だれにも出さない手紙。
でも、いつか誰かが読んでくれるかもしれないと思った。
誰かを想う気持ちにも、やさしい香りを。
今日もあなたに、やさしい香りを。
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