2025/07/18 20:00
制服の背中が、少しだけ伸びた気がした。
それを伝えたくて口を開きかけたけれど、やめた。
彼の背中に向かって言うには、まだ早いような気がする。
台所には、湯気が残っていた。
ごはんを握ったばかりの手のひらが、少しじんとしている。
今日のおにぎりは、大葉と梅干し。
ふだんより塩気を少し減らして、ランナーズスパイスをすこしだけ混ぜ込んだ。
夫が生前、そうしてよく握っていた。
「時間がないから、朝ごはんいらない」と息子は言い、学校へと急いでむかった。
出かけたあと、テーブルの上にそのままのおにぎりが残っているのを見ると、やっぱりすこしだけ、さみしい。
洗濯機の音が部屋の奥でまわっている。
今日は水曜日。夫の命日ではないけれど、なぜか毎週、水曜日になると胸がしんと詰まる。
朝のうちはまだ、息子が何を思っているかがわかるような気がしていたが、
家を出て昼をすぎると、それがまるで見えなくなる。
彼はたぶん、誰よりも傷ついていて、
それを私よりうまく隠せるようになったのかもしれない。
私はたぶん、誰よりも元気なふりができていて、でも彼の「朝の背中」の気配にだけは、弱さを見せてしまいそうになる。
リビングに残されたおにぎりを、手に取る。
まだ、ほんのりあたたかかった。
ラップ越しに感じるその温度が、
どこかで、息子の手のひらのような気がした。
私はもう一度、握りなおす。
今度は、自分の昼ごはんのつもりで。
ゆっくり噛むと、大葉の香りと梅の酸味、そのすきまにスパイスのやさしい香りがひろがった。
味に記憶が蘇る。
夫とハイキングに行く時には必ず持っていった。
「今日のこれは、走れる味だな」
彼は、そう言って笑っていた。
走れる味。
もう一度作れて、よかったと思った。
【大葉と梅のスパイス焼きおにぎり】
<材料>(2個分)
・ごはん 茶碗1杯分
・梅干し 1個(種を除いてたたく)
・大葉 2枚(みじん切り)
・ランナーズスパイス 小さじ1/2
・醤油 小さじ1/2
・ごま油 適量
<作り方>
1. 温かいごはんに、梅、大葉、ランナーズスパイスを混ぜておにぎりにする。
2. フライパンにごま油を熱し、おにぎりの両面を焼く。
3. 最後に醤油をまわしかけ、香ばしく焼き色をつける。
息子の靴音は、まだ聞こえてこない。
けれど、少しだけ外の空気が軽くなった気がした。
たぶん今日も、彼は走るのだろう。
校門から、少しだけ遠回りして、自分の足で、どこかの角を曲がる練習をしている。
私はもう少し、洗濯機の音を聞いていよう。

走る人を待つ時間にも、やさしい香りを。
▶ 次の話 【優しさと、走る②|第2話 午後の音】