2025/08/04 07:00
~プロローグ~
時は安政二年(一八五五年)。
群馬・安中藩にて、一風変わった「鍛錬」が始まった。
安中城から、標高千二百メートルの碓氷峠にある熊野神社まで。
山を駆け、谷を越え、片道五里およそ二十キロの往復行程。
これは、藩主・板倉勝明が命じた「遠足(とおあし)」と呼ばれる試練である。
刀を持ち、袴をはき、駆け抜ける藩士たち。
気候に翻弄され、身体を酷使し、それでも走る。
己を鍛え、志を定めて。
この記録が、後に「日本最古のマラソン」として語られるとは、誰も知らなかった。
第一話「風の試練」
風が、春まだ浅い碓氷峠を逆撫でしている。
岩肌に残る薄氷が朝陽を跳ね返し、陽炎のようにゆれる空気のなかを、吉村新之助は駆けていた。
「藩命である。鍛錬を怠るな」
そう言った藩主の声音が、まだ耳の奥に残っている。
安中城を出立して二刻。藩士三十名による「遠足(とおあし)」の列は、すでに長くばらけていた。碓氷川のせせらぎが遠ざかるにつれ、坂は険しさを増し、足裏の草履がじんじんと痛む。
息が、白い。
胸が、焼ける。
ふと、帯のあいだから母の作ってくれた小さな包みを取り出す。油紙に包まれた団子が三つ。焦げ目が香ばしく、味噌の香りがかすかに鼻を打った。
「これはね、お前が初陣の時に持たせようと、ずっと考えていたのよ」
そう言って母は昨夜、縁側で火鉢にあたりながら笑った。
味噌に山椒、乾燥させた柚子の皮、炒って細かくした胡麻が混ぜてある。これを、白玉粉ともち米を蒸して丸めた団子に塗り、炭火で炙る。
最初の一口は、ほろ苦く、しびれるようだった。だが、咀嚼するごとに、舌の奥からじんわりと旨みが湧きあがってくる。
体が、覚めていく。
「うまい……」
思わず口にした言葉が、山の空気に吸い込まれていく。
あと一里。熊野神社がある峠の頂までたどり着けば、今日の遠足は終了だ。
遠く、ひとつ前を走っていた男の背中が見えた。
木々の間から差し込む朝の光が、新之助の肩を押すように感じられた。
「風になるのだ、吉村新之助」
誰かがそう言った気がした。いや、自分のなかの声か。
彼は、再び走り出した。
峠をめざして。
風のなかへ。
【山椒味噌だんご(ランナーズスパイス風)】
<材料>(団子6個分)
・もち米粉(または白玉粉) 100g
・水 80ml
・味噌 大さじ1
・山椒(粉) 少々
・柚子皮(乾燥して刻んだもの) ひとつまみ
・ランナーズスパイス 小さじ1
・炒り胡麻(白) 小さじ1
<作り方>
1. もち米粉に水を加えて耳たぶ程度の柔らかさに練り、6等分して丸める。
2. 蒸し器で10〜15分ほど蒸す。
3. 味噌・山椒・柚子皮・胡椒・胡麻・ランナーズスパイスを混ぜて練り味噌をつくる。
4. 蒸し上がった団子に味噌を塗り、炙る(またはフライパンで軽く焼く)。
5. 香ばしく焼き目がついたら完成。携行にも便利。
団子を食べきると、新之助は油紙を丁寧に折りたたんで帯にしまった。
汗のにじんだ額を拭い、前を見据える。
木の間から、熊野の石鳥居がほんのわずかに姿を現していた。
坂はまだ続いている。だが、もう足は迷わない。
彼は草履を蹴り上げるようにして、一歩、また一歩、峠へと駆け上がっていった。
まるで、風のなかに自分を溶かすように。
