2025/08/08 20:00

山の茶屋に、ひとりの娘がいた。
名はお滝。歳は十九。
父が亡くなってからは、母とふたりでこの碓氷峠の中腹にある茶屋を切り盛りしている。

今日は早朝から忙しかった。藩の「遠足」だというので、男たちが次々と駆けていく。茶屋の前に水桶を出し、湯を沸かし、簡単な団子や干し柿などを売る。

その中にひとり、お滝には気になっている男がいた。
背はそれほど高くない。だが、肩と背中がまっすぐで、芯のある風体のお侍だ。
その男の走る姿は、ほかの誰よりも苦しそうに見える。けれど、ほかの誰よりも前を見て生きているように見えた。

「滝、おまえも少し休めばいい」

母のさちが声をかけてきた。
お滝はうなずくと、茶屋の奥に引っ込んだ。

棚の奥にしまってある紙箱を取り出す。
昨日の晩、団子をつくったときに余った味噌に、山椒と胡麻、それからほんの少しだけ唐辛子を混ぜて、煮た大豆と和えた。
それを、炊いた雑穀と干し芋の細切りと一緒に混ぜ込んで握った、まかない用の「峠のおこわ」。
朝から働いて、腹が減っていた。
ひと口かじると、味噌のしょっぱさと大豆の甘み、芋のほっくりした食感が口に広がる。
鼻の奥に抜ける山椒の香りが、春の風の匂いと混ざった。


【峠のおこわ】

<材料>(2人分)
・雑穀ごはん 2膳分
・干し芋 30g(千切り)
・大豆(水煮でも可) 大さじ2
・味噌 小さじ2
・山椒(粉) 少々
・ランナーズスパイス 小さじ1/2
・炒り胡麻(白) 小さじ1
・唐辛子 少々
・醤油 少々

<作り方>
1. 味噌・山椒・胡麻・唐辛子を混ぜ、軽く炒った大豆と和える。
2. 雑穀ごはんに干し芋と1を加えてざっくり混ぜる。
3. 醤油で味を整える。
4. おにぎり状に握って竹皮や和紙に包む。


茶屋の裏手に回ると、遠く熊野神社の鳥居が霞の中に見えた。
その少し手前で、見覚えのある小さな影が動いた。

たぶん、あのお侍だ。

お滝はふと、手ぬぐいの端を掴んで、祈るように呟いた。

「また、会えますように」

熊野の峠道に、風がまた吹いた。
それは春の風で、誰かの恋文のようだった。
言葉にならない想いを、ゆっくりと山の上へと運んでいった。
風を喰らう者に、香りの力を。
旅の疲れを、香りで癒やす。