2025/08/11 07:00
四十を越えて走るなど、正気の沙汰ではない。
そう思いながら、仁科清三郎は脚を前に出した。
重い脚だ。若い頃のようにはいかない。膝の古傷が時折きしむ。
だが、安中藩主の命である。遠足と称した、武士の鍛錬の場。断ることはできぬ。
それに、かつての剣術指南役としての矜持もある。若い藩士たちがはしゃぎながら駆けていくなかで、己の存在を消すわけにはいかぬ。
「そなたには、まだ走っていてほしいのです」
妻の声が耳に残っている。
病に伏す妻・みつの願いだった。
「走る清三郎さまが、わたしは好きです」
碓氷峠を越えた先の熊野神社まで、およそ三里半。
長いようで、短い。
途中の坂で脚がもつれた。
若い藩士に肩を貸され、礼を言う。
悔しい。
だが、なぜか悪くない気もした。
折り返しを過ぎた頃だった。
峠の木陰に、木箱を開けて休む者がいた。見れば、かつての門弟の一人、今は下級藩士の市川。脚を痛めたようで、表情が歪んでいる。
清三郎は彼の傍らにしゃがみ込み、ふところから布包みを取り出した。
「少し食え。走れぬなら、せめて喰うことだ」
布を開くと、ふわりと香ばしい香りが立ちのぼる。
雑穀とごぼうと炒った鯖を混ぜた「走者のそぼろ」
「これを、作ったのですか?」
「いや、娘がな。走る前夜、私に持たせてくれた。『影のようなお父さまが、光を背負って走りますように』と申してな」
清三郎はそう言って、空を見上げた。
午後の陽が、樹々の隙間からこぼれ落ちていた。
【走者のそぼろ(鯖とごぼうの混ぜごはん)】
<材料>(2人分)
・鯖の水煮(または焼いた鯖のほぐし身) 1/2尾分
・ごぼう 1/4本(ささがき)
・生姜(みじん切り):小さじ1
・醤油 小さじ1〜2
・味醂 小さじ1
・胡麻油 小さじ1
・雑穀ごはん 2膳分
・山椒 少々
・ランナーズスパイス 少々
<作り方>
1. 胡麻油で生姜とごぼうを炒める。
2. 鯖のほぐし身を加えてさらに炒め、醤油・味醂で調味。
3. 雑穀ごはんに混ぜ込み、山椒とランナーズスパイスを振る。
4. おにぎり、もしくは折詰に
走りきった清三郎は、神社の石段にひとり座っていた。
「影を越えたか?」
自問して、ふと笑った。
老いた身なれど、まだ一歩を出せる。走れるうちは、走ればよい。
