2025/08/15 20:00

「おとうさまは、もう峠に着かれたころでしょうか」

おすみは、庭の草を摘みながら空を見上げた。
霞がかかる碓氷の方角は、うっすらと陽炎が揺れている。あれが春というものか、と思う。

遠足の日。
安中藩中が騒がしい中で、女たちは静かに台所を守っていた。

「ただ待つのも退屈ですものね」

おすみは、父清三郎のためにと用意した折詰(干し椎茸の煮汁と炊き合わせた雑穀)の残りと山芋の端、そして“あれ”を取り出した。

"あれ"とは、「走り梅」と呼ばれる保存食。
干した梅と、山椒と、酒と。香りと酸味が、疲れた身体に心地よい。

だが今日は、もう一工夫する。
母みつが寝所から声をかけてきた。

「おすみ。おまえ、また何か拵えているの?」

「ええ。おとうさまがお戻りになる前に、台所を整えておこうかと思って」

おすみは、すり鉢で走り梅と山芋をすり合わせた。
そこに少しの味噌と、香りづけのごま油。
冷たくても、滋味深いもの。

「帰ってからの一膳目に、これはきっと効きます」

味見をして、頷く。

「おとうさま、今日は転ばずに帰ってきてくださいね」

陽が傾くころ。
遠くから足音が聞こえた。

木戸を開けて入ってきた清三郎は、額に汗をかきながらも背筋を伸ばしていた。
おすみは笑って言った。

「おとうさま、おなか空いていませんか?」

清三郎は、ほっと目尻をゆるめた。

「腹も空いたが……まず、おまえの顔が見たかったよ」

 
【走り梅のすり流し】

<材料>(2人分)
・干し梅 2個
・山芋(すりおろし) 5cm程度
・味噌 小さじ1
・酒 小さじ1
・ごま油 数滴
・水または出汁 適量(好みの濃さにのばす)
・山椒 少々
・ランナーズスパイス 少々

<作り方>
1. 干し梅の種を取り除き、包丁で叩く。
2. 山芋をすりおろし、梅と味噌をすり鉢でよく合わせる。
3. 酒、ごま油を加え、水または出汁で伸ばす。
4. 山椒とランナーズスパイスをひとふりして冷やす。


その夜、母のみつはすこしだけ起き上がって、家族で夕餉を囲んだ。
わずかに山芋の香り、梅の酸味が口に広がる。

「おすみの味じゃな。うまい」

清三郎はそう言って箸を止め、空を見た。
遠足の風は、家にも戻ってきていた。
風を喰らう者に、香りの力を。
風のように香り、走り抜ける。