2025/08/18 07:00
風が、安中の城下を抜けていった。
それは音を立てて吹いたのではなく、ただ静かに、だが確かに人々の心のあわいを撫でていくようだった。
吉十は、今年も走れなかった。
足の悪い彼は、町の端で見守るだけだ。
それでも、彼は朝から支度をした。藩士たちのための「走りの湯」を仕込む。
山椒をきかせた甘酒に、すりおろした干し大根。冷やしても熱くしてもいけるように。
疲れた者の身体に、ふわりと沁みるように。
【走りの湯】
<材料>(2人分)
・甘酒 280ml
・すりおろし干し大根 大さじ1
・おろし生姜 小さじ1
・ランナーズスパイス 小さじ1/2
・山椒の粉:少々
<作り方>
1. 甘酒を温める(冷製ならそのままでも可)
2. すりおろし干し大根・生姜・ランナーズスパイスを加える。
3. 火を止めて、山椒を少し加えて味を整える。
一方、清三郎の娘おすみは台所で、干し柿と麦粉をこねていた。
以前走り終えた父が、「甘いものが少し欲しいな」と言ったからだ。
柿のやさしい甘みを小さな団子にして、香ばしく炙る。
「おとうさまは、今年も峠を越えて帰ってきますよ」
と、おすみは母にそっと告げた。
みつはうなずき、目を閉じたまま、小さく笑った。
城下の寺の前。
市川は傷めた足を引きずりながら、折詰を片手に立っていた。
中には、師である清三郎から渡された「走者のそぼろ」が残っている。
だがそれは、走れなかった友に渡すためのものだった。
「おまえのぶんまで、来年は走ろう」と言って。
友は涙を流した。市川は何も言わなかった。ただ、風が頬を撫でた。
その朝、お滝はあれから一年ぶりにあの男を見つけた。 姿は変わっていなかった。風を割って走るような背中だった。 去年と同じ峠の風が、ふたりの間を静かに吹き抜ける。 言葉はなかったが、そこにすべてがあった。
遠足の季節が、また巡ってきた。
夕暮れ。
熊野神社の鳥居をくぐる少年がひとり。吉十の弟子で、来年から初めて遠足に参加することが決まっている少年だった。
神社の脇にしゃがみこみ、残っていた走りの湯をすすった。
その表情は、少しだけ大人びて見えた。
そしてもうひとり誰にも知られず、峠の上で一人の女が手を合わせていた。
かつて、遠足に命を落とした若き藩士の許嫁だった女。
今は、彼の家に毎年そっと供物を届ける。
その日も、干した蓮根と柚子味噌を包んだ小さな折詰を持って。
風が吹き抜け、彼女の髪がふわりと浮いた。
それを掬うようにして、風は峠を越えて、城下に戻っていった。
その夜、清三郎は空を見上げて言った。
「風は、どこから来て、どこへゆくのだろうな」
おすみが笑って答えた。
「ここにいますよ、おとうさま。
ほら、いま、吹いているでしょう」
彼の頬を撫でる春の風が、どこか少し、甘く香った。
~エピローグ~
風の音は、今も
令和のいまも、「安政遠足」は続いている。
甲冑を着て走る者、仮装する者、真剣に走る者。
江戸から現代へと、遠足は形を変えながらなおも生きている。
けれど、それは単なる仮装マラソンではない。
かつて、命を賭して走った者がいたこと。
町の誰かが、走る誰かのために火を焚き、湯を沸かし、食をこしらえたこと。
風は、ただ吹くものではない。
人が走るたび、祈るたび、思いをつなぐたびに、風は生まれる。
その風が、町を、時代を、越えていく。
「風を喰らう」とは、そういうことなのだ。
ただの風ではなく、そこにあった誰かの時間を、気配を、まるごといただいて生きていくこと。
山を駆け、汗を流し、笑って戻ってくる者たちの、背中にふわりと乗る風。
その風はきっと、安政のあの日から、ずっとここにある。
*** おわり ***
*** おわり ***

風を喰らう者に、香りの力を。
体の奥に、風の香りを。