2025/08/25 07:00
朝、目覚めたときから何かが変だった。
窓を開けると、なにやらざわざわしている。
いや、別にうるさいわけじゃない。
ただ、色々な音が混じっている感じ。拡声器なのか、「えーただいまよりー」などという、町内放送のような声が風に乗ってくる。
なんだろう、と思いながらパジャマのままベランダに出ると、道路が…ない。
いや、道路はあるのだが、人で埋まっている。
うじゃうじゃ、と。
ぜんぶ、ランナーである。
ゼッケンをつけた群衆が、ぞろぞろと走っている。
けして散歩ではない。
明らかに「大会」である。
あっ、思い出した。
ポストに入っていた市の広報紙。
「市民マラソンのお知らせ」なる、やたらと爽やかな笑顔の市長が載ったチラシ。
「当日は交通規制にご協力を」
その日が、今日であったのだ。
これでは、パン屋に行けない。
信号の先が完全に封鎖されている。
横断歩道に警備員がいて、「今は渡れません」と無慈悲に言う。
あの向こうに、あつあつのクリームパンがあるというのに。
私の日曜日の朝は、クリームパンによって成立しているというのに。
それが…渡れない。
人生の設計図にいきなり穴を開けられたような気分である。
しかたなく家に戻り、冷蔵庫を開けた。
おにぎりがあった。
昨日、炊きすぎたごはんで作ったやつだ。
「非常食用にでも」とラップで包んでおいた、あの三角たち。
まさか今日、非常事態が来るとは思わなかったけれども。
こうなれば、代打おにぎりである。
電子レンジで温めて、ひとくちかじる。
うん…これは…うまいぞ。
なんだか、走ったあとのような気分。
私は走っていない。
が、ランナーに便乗して食べるには十分である。
なにせ、彼らが道路を封鎖したおかげで、私はパンを諦めたのだ。
これは、犠牲に対する対価である。
ただの塩むすびではない。
こっそりランナーズスパイスを混ぜてある。
しかも、レモン風味。
【ランナーズスパイスの塩むすび】
<材料>(2〜3個分)
・炊きたてごはん 1合分
・ランナーズスパイス 小さじ1/3
・塩 適量
・白ごま 小さじ1
・レモンの皮 少々(すりおろし)
<作り方>
1. ごはんにランナーズスパイス、白ごま、レモンの皮を混ぜる。
2. 手を水でぬらし、塩をつけて三角に握る。
スパイスがじんわり舌に広がり、レモンの香りが鼻にぬける。
「爽やか系男子」とでも名付けたくなる味わいだ。
口内だけは、走った人の気分である。あくまでも、口内だけは。
外では、拍手が聞こえる。
たぶんゴールした人がいるのだろう。
沿道のボランティアが手を振り、ランナーが深々とお辞儀をしている。
私も思わず、ベランダで拍手してしまった。
別に知り合いではない。
でも、なんだか誇らしい。
誇らしいので、もう一個おにぎりを食べた。
夕方、すべてが終わったあとの道路には静けさが戻った。
ゼッケンもテントも、警備員の人もいない。
そこにあるのは、ふつうの町の、ふつうの道だ。
私はようやくパン屋へ向かう。
あの、あつあつのクリームパンを買って、ひとくちかじる。
うまい。
けど、なんだろう。
今日は、おにぎりの勝ちだ。
自分では走っていない。
でも、どこかに参加した気分だけはある。
これを「気配だけマラソン」と呼ぶことにしよう。
気配だけで、おにぎりがうまくなるのだから。
やっぱり、人間とはおもしろい。
走らなくても、香りで整う日曜日。
整う方法は、走るだけじゃない。