2025/08/29 20:00
マラソン大会のあった日曜の夕方。
町は落ち着きを取り戻していた。
ゼッケンもテントも撤去され、パン屋も平常営業に戻っていた。
私は無事にクリームパンにありつき、満ち足りた気分で銭湯へ向かった。
そう、私は日曜夕方の銭湯が好きである。
熱くもなくぬるくもないお湯に肩まで浸かって、ぼんやりと天井を見つめ、最後に瓶入りのフルーツ牛乳で〆るという一連の儀式が、私にとっての週末の儀式なのだ。
しかし、その日は違っていた。
銭湯ののれんをくぐった瞬間、そこに広がっていたのは…
タオルを首にかけたランナーたちの群れである。
靴箱の前から洗面所まで、全体がどことなくスポーツクラブ風になっている。
汗の匂いのなかに、かすかにミントのような香りが漂い、誰もが「さっぱりした表情」をしている。
ふつうの客は、入る前は疲れ顔なのが常だが、彼らはすでに達成感を背中に纏っていた。
私は脱衣場で着替えながら、まわりを観察する。
走る人たちの動作は速い。
脱ぐのも、洗うのも、湯船に入るのも、全部速い。
しかも手慣れている…たぶん。
桶の使い方にも無駄がない。
洗い場では無言のまま、一列に並び、流れるように頭を洗っている。
こっちはまだ足をぬらしてもいないのに、彼らはもう仕上げのかかり湯である。
ようやく空いた洗い場の端に陣取ると、隣の男もランナーだった。
足首に日焼けの境目がくっきり出ている。
靴下のあとが、まるでスネに巻いたゼッケンみたいに白く残っている。
この「くっきり日焼けライン」こそが、今日の出走証明書なのだ。
シャワーの温度をぴたりと合わせると、男は深いため息をついた。
「いや〜、今日のコース、けっこう坂がキツかったですよねえ」
…知らんがな。
こっちは坂どころか、階段すら一段も上ってない。
ベランダから手を振って、おにぎり食べてただけである。
でもその気配を察したのか、男は苦笑して「すいません、走ってない…ですよね」と言った。
…なぜだ、なぜわかるのだ。
それでも、やはり湯船は気持ちよかった。
熱すぎず、ぬるすぎず、絶妙な人肌温度。
走っていない体にも、今日の疲れがじわっとしみる。
何の疲れかは…正直よくわからない。
銭湯を出て、夜風を浴びながら家に帰る途中、ふと思った。
「なぜ走った人のほうが優遇されているように見えるのだ」と。
洗い場も脱衣場もドライヤーも、走った人の方が堂々と使っているように見えた。
走っていない者にも、ささやかな充足感はあっていいはずだ。
そこで私は家に帰り台所へ直行して、これを作ることにした。
【厚揚げのカリカリランナーズスパイス炒め】
<材料>(1〜2人分)
・厚揚げ 1枚(大きめ)
・長ねぎ 1/2本(斜め薄切り)
・ごま油 小さじ2
・醤油 小さじ1
・ランナーズスパイス 小さじ1/2
<作り方>
1. 厚揚げはキッチンペーパーで軽く油を拭き、食べやすい大きさに切る。
2. フライパンにごま油を熱し、厚揚げをこんがりと焼く。
3. 長ねぎを加えて炒め、醤油を鍋肌から回しかける。
4. 火を止めてランナーズスパイスをふりかけ、さっと混ぜる。
ジュッ、という音とともに立ちのぼる香りが、すでにビールを誘っている。
あつあつをひと口かじれば、外カリ中ふわ、ねぎの甘みとスパイスの刺激が混ざり合い、これはもう「ご褒美感満載」である。
そう、走ってないのにご褒美をもらってしまった。
でもいいのだ。
風呂に入り、厚揚げを炒め、ひとり乾杯する。
それが私の「市民マラソン後の過ごし方」である。
翌日、知り合いに言われた。
「昨日の大会、出てましたよね? 銭湯で見た気がするんですけど」
違います。
出てません。
でも、厚揚げの香りが残ってたかもしれません。
走らなくても、香りで整う日曜日。
走らない日も、香りがあれば十分。