2025/09/08 07:00
雨が降り続いていた。
止む気配はなく、六月の午後はすっかり灰色に沈んでいた。
森一弘は、ソファに深く腰を下ろし、薄い毛布に足を包みながら、録画しておいた『炎のランナー』を再生した。
一九二四年、パリ・オリンピック。
ユダヤ人であることで差別を受けながらも、勝利への執念を燃やすハロルド・エイブラハムズと、スコットランドの宣教師でありながら「走ることは神への賛美」と信じるエリック・リデル。
二人の信念は、正反対に見えて、どこかで似ていた。
映像の中のパリは、陽光に満ちていた。
対して今の東京は湿気を含み、雨音だけが部屋を満たしていた。
それでも、一弘は映画のなかに自分を見た。
若い頃、大学の駅伝サークルにいた。強くはなかった。
記録は人並み、気持ちだけは一丁前だった。
走る理由も曖昧で、エイブラハムズのような飢えも、リデルのような信仰も、どちらもなかった。
彼らは走る理由を持っていた。
そのことが、少し羨ましかった。
映画のラスト、リデルが400メートルを走り切り、神に感謝するシーンを観終えると、知らぬ間に背筋を伸ばしていた。
彼の走りには、誰にも侵せない誇りがあった。
キッチンに立つと、ふと、オイルサーディンの缶詰が目に入った。
高校時代、父親がつまみによく食べていたやつだ。
ビールを飲みながら、宗教と戦争の話をぼそぼそと語っていた。
その父ももう、この世にはいない。
棚の奥から、ランナーズスパイスを取り出す。
クミンとコリアンダー、ターメリックがふわりと香った。
この香りがあると、食べることが「儀式」になる。
走ることも、儀式にしてしまえば、少し楽になるかもしれない
そう思いながら、鍋に火を入れた。
【ランスパ・オイルサーディンのパスタ】
<材料>(1人分)
・スパゲッティ:100g
・オイルサーディン(缶詰)1缶
・梅干し 2個(種を抜いて細く切る)
・にんにく 1片(みじん切り)
・鷹の爪(輪切り)少々
・ランナーズスパイス(HOT) 小さじ1
・オリーブオイル 大さじ1
・大葉 2枚(千切り)
・塩・黒胡椒 適量
<作り方>
1. 沸騰した湯に塩を加え、スパゲッティを茹でる。
2. フライパンにオリーブオイルを熱し、にんにくと鷹の爪を入れて香りを立たせる。
3.ランナーズスパイスを加え、さらに炒めて香りを引き出す。
4.オイルサーディンを油ごと加え、木べらで軽く潰しながら炒め、細く切った梅干しを加える。
5. 茹でたスパゲッティをフライパンに入れ、パスタの茹で汁を足し全体をよく絡める。
6. 塩と黒胡椒で味を整え、皿に盛って大葉を散らす。
腹が満たされると、外に出たくなった。
雨は、いつの間にか止んでいた。
靴ひもを締め、古いナイキのランニングシューズを履く。
白いTシャツに、ネイビーの短パン。
濡れた道を、ゆっくりと踏みしめながら走り始めた。
一弘は走りながら、自分の中に何かを探していた。
信仰じゃない。
栄光でもない。
けれど、それでもいいと思えた。
走れるということが、もう十分に、ありがたいことだと。
静かに、彼は雨上がりの街を走った。
その背中に、誰も見ていない賛美が、確かにあった。

1本の映画のように、1皿の香りを。
走る物語に、香りのエンディングを。
▶ 次の話 【映画と、走る|第2話 国を持たぬ走者】