2025/09/12 20:00

その夜、雨は降っていなかった。

だが、空気にはまだ昨日の湿り気が残っていた。

台所の換気扇の下で、煙草を一本細く吸っては消した。

 

映画『戦火のランナー』を観終えたあとだった。

グオル・マリアル。

スーダン内戦から命からがら逃げ、家族を失い、難民となり、米国で育ち、南スーダンの希望を背負いロンドン五輪を走った男。

その全身から滲むのは、走るために生きた、というより生き延びるために走った人間の静かな狂気だった。

 

テレビの画面に流れる映像の最後、彼が何もない空間で静かに手を合わせたあの姿が焼きついていた。

国を持たぬまま、オリンピックを走る。

その事実に、何かが揺さぶられた。

 

俺は、何を持ってここにいるんだろう。

会社を辞めて十年が経つ。

フリーランスの編集仕事をしながら週の半分は暇を持て余し、ランニングと料理で時間を埋めている。

家族はいない。

友人は減った。

かといって寂しさで死ぬような男でもない。

 

けれど、グオルの走る姿を見て胸が少し苦しくなった。

生きることが、あんなにも剥き出しになる瞬間があるのかと。

 

ソファを立ち、窓を開けた。

街の灯りが、湿気を帯びてゆっくりと滲んで見えた。

ふと、甘くてスパイシーなものが食べたくなった。

 

今日のレシピは、いつかケニアで食べた煮込み料理を思い出して作ってみることにした。

もちろん、本物ではない。

ただ、自分なりの解釈だ。

それでいい。

 

 

【バナナと豆のスパイシー煮込み】

 

<材料>(1~2人分)    

・バナナ(完熟) 1本

・茹でたひよこ豆(またはミックスビーンズ) 100g

・玉ねぎ 1/2個(みじん切り)

・にんにく 1片(みじん切り)

・トマト缶 1缶

・ココナッツミルク 100ml

・ランナーズスパイス(vegan) 小さじ1と1/2

・オリーブオイル 大さじ1

・塩・胡椒 適量

・パクチー(あれば) 少々

 

<作り方>

1. フライパンにオリーブオイルを熱し、玉ねぎとにんにくを炒める。

2. 透き通ってきたらトマトとランナーズスパイスを加え、じっくり炒める。

3. ひよこ豆と輪切りにしたバナナを加え、軽く炒める。

4. ココナッツミルクを加え、弱火で5〜7分ほど煮込む。

5. 塩・胡椒で味を整え、パクチーを散らす。

 

 

皿をテーブルに置き、ビールはやめにしてミントティーを淹れた。

ほんのり甘くて、複雑なスパイスがじわじわと胃の奥に広がっていく。

かすかな苦味。

バナナの甘さが、それを支える。

これは、走る前の食事にちょうどいい。

 

支度をして、外に出る。

空は晴れていた。星は見えなかったが、風は軽かった。

街灯の下を走る。車の少ない夜の環七を、無言で。

 

足音が、まるで異国のもののように響いた。

この場所も、国も、誰のものでもない時間が確かに存在する。

一弘は走りながら、その無国籍の夜に少しだけ自分を溶かしていく。

 

グオルの顔が浮かんだ。

あの静かな笑みと、まっすぐな脚。

 

走るとは、生きる証そのものだ。

誰かに証明する必要なんて、どこにもない。

 

一弘は、そう思った。

 

 1本の映画のように、1皿の香りを。

香りが、あなたのラストシーンを変える。

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